2020-03-12 | ブログ
刺激的なタイトルに惹かれて、読んでみました。
『測りすぎ ~なぜパフォーマンス評価は失敗するのか?~』
ジュリー・Z・ミューラー(訳:松本裕)
(https://www.amazon.co.jp/測りすぎ――なぜパフォーマンス評価は失敗するのか-ジェリー・Z・ミュラー/dp/4622087936/ref=sr_1_1?__mk_ja_JP=カタカナ&keywords=測りすぎ&qid=1584011681&sr=8-1)
著者は、アメリカのカトリック大学歴史学部教授、近代ヨーロッパ知性史、資本主義の歴史をご専門に研究していらっしゃる方です。
歴史学者がいう「測りすぎ」ってなんだと思いますか?
おおざっぱに内容を要約すると、
今の社会、なんでも数値化して、それをもとに評価したり、戦略を立てたりしています。
それで本当に組織やそこにいる人、社会が良くなったのか?という問いかけから始まります。
その検証を歴史学者ならではの歴史的な史実をもとに、大学や医療、ビジネス、慈善事業などの場面に分けて行っていきます。
最後には、数値化する上での心構えやチェックポイントも提起しています。
1.測定執着
測定執着:文化的パターンの一つとして「人々が世界について話すその方法に影響を与え、したがって人々が世界についてどう考えるのか、そして世界でどのように行動するかにも影響を及ぼす(p18)」ことを測定基準への執着(略して測定執着)と呼んでいます。この中には3つの執着の要素があります。
この測定執着の前提は、「測定できるものはすべて改善できる」という考え方から始まりました。
始まりは19世紀の物理学者ケルヴィンの格言「測れないものは改善できない」から来ているとのこと。
これをもとにして、「測れないものは改善できない」→「測定されるものは実行される」→「測定できるものはすべて改善できる」と展開していったとのことです。
そして、今では「実績は標準化された測定に落とし込める」ものと同一視されています。
これを信じる人々が「説明責任」のための「透明化」を求めると「誠実さのためには、可能な限り多くの情報を明らかにし、可視化することが求められているのだと示唆する場合が多い」ということになります。
その結果は、より多くの文書化、さらに多くのミッション記述書、もっと多くの「目標設定」が要求される。
(ことになってきます。
心当たりがありますよね。なんでこんなに書類が増えたんだろう?これ、本当に必要なのかな?とか…。)
そして、これらが実践されたときに起こる意図していない結果が、生じているにも関わらず、その信念が持続している状態を測定執着と呼んでいます。(執着という表現までいっていることが、懸念されているところなのですね)
もちろん著者は、測定することを全く否定しているわけではありません。測定することで解決策を考えることができる場合、問題解決に貢献する場合もあると認めています。
ただ、使い方、活用の場によって負の効果があり、それを分かっているはずなのに、やめられない…。
これは、テイラー主義からきていて、労働者に対して科学的管理をしていくには測定すること、測定したデータに基づいて管理をすることが経営学の主流となったことが背景として挙げられています。
これにコスト主義が加わってさらに数値化されていく…。
2.外的報酬と内的報酬
今は、測定執着が負の側面を見せやすいのが、特に人事面のようです。
報酬を決める際に、組織の中の自分の(部署の)目標と自分の目標設定と達成率がポイントになっているということを耳にすることがあります。
その設定の仕方、達成率の測定方法などにも、たくさんの課題がありそうですが、まちづくりに携わっている身としては、いちばんしっくりくる件がありました。
それが、「外的報酬と内的報酬」でした。
いわゆるビジネスマンと非営利的な組織で働く人々とモチベーションの違いと評価の食い違いです。
外的報酬が効果的な場合
企業は利益を上げる事が目的であってそのために従業員も働いています。なので、従業員は、報酬が増えること、昇進することが目的となってきます。(これで認められたと思い、ステータスになってきます)
ただ、その作業や会社の営みそのものを維持していくための(ある意味)ルーティンの仕事が評価されにくい。
内的報酬が効果的な場合
ところが、非営利的な組織、例えば、学校や大学、病院、政府機関などで働いている人たちの多くは、報酬はないと困りますが、組織のミッションに対して働くということがモチベーションになっています。報酬そのものよりも、教えることで会ったり、研究することであったり、病気を治すことであったり、自分や組織のミッションのために仕事をしていると思われるセクションの人たちがいます。
そのような場で企業のような測定と外的報酬を実施していくと、そこで働く人たちのモチベーションが変化してくるというのです。
外的報酬を目的とした評価→これだけのことをしたら、これだけのお給料しかないのであれば、これだけやっておけばいいでしょう。→組織のミッション達成に近づけるというモチベーションが低下する。
となっていくのだそうです。
外的報酬で実績を向上させられるというのは、当てはまらない場合があるということのようです。
この違いは大きいです。まずは、組織の目的を明確にして、どのような仕事をしてほしいのかを考えた上で測定項目を決定することが重要なようです。
3.測定項目を決めるときに考えること
この本は測定することを前面的に否定しているのではありません。
測定をするときに、こんなことを考えましょう。それをどのように判断していくかも考えましょう。10のチェック項目の提起が最後にあります。
これらをクリアして
重要なのは定量化できない経験と技術。
これを認識して、「測定基準にどの程度の重みをもたせるのか、その特徴やゆがみを認識できているか。そして、測定できないものを評価できているかどうかわかっていることが重要となる。」ということでした。
ファシリテーターを学ぶときにも…
ファシリテーションを学ぶ過程で、必ず出てくるのがスキルとマインド。
スキルは、これができるようになった。あんなやり方があるらしいけど、どうやってやるのかな?と具体的に文字にできる「スキル」があります。
これは、何度かやってみるとできるようになっていきます。
ところが、マインドはなかなか難しいのです。
心構えというか、覚悟というか、何をミッションとしているのか…
文字にしようとすると文字数が増えるけれど、中身はこれだ!と言い切れない。人によって異なる。というやっかいなものです。
でも、このマインドがしっかりしていないと、対話の場をホールドするということが難しいのです。
ファシリテーション協会(FAJ)というファシリテーションを学ぶNPOがあります。
1500人くらい会員がいて、ファシリテーションを学んでいます。
この中でも、対話の場と言われる「ワールドカフェ」や「OST(オープン スペース テクノロジー)」などを参加者にとって気持ちの良い、話ができたなぁ、いろんな気づきがあったなぁというような感想を持ってもらうことができる人は多くはありません。
対話の場にこそ、そこにいるファシリテーターのマインドが反映されてしまうのです。
なかなか定量化、数値化できないところなのです。
説明もこのスキルを持てば、ワールドカフェのファシリテーターになれるというのがないのです。
人間力とかキャラクターとか、とても抽象的な言葉で表現されます。
きっと、著者の言う「言葉にできない経験や技術」がファシリテーターのマインドと近いものだろうなぁと思いました。ファシリテーターとしては、その部分を評価されるととてもうれしいです。
(野中郁次郎さんの「暗黙知」のようなものを評価しましょう!という意味なのかな?と理解しています。)
(https://www.amazon.co.jp/知識創造の方法論-野中-郁次郎/dp/4492521364/ref=sr_1_18?__mk_ja_JP=カタカナ&keywords=野中郁次郎&qid=1584012222&sr=8-18)
ちなみに、私の場合は…
まずは、内的報酬があるのか?(ご指名いただけること自体ありがたいでで。そして、明確なミッションを持ってファシリテーターとしてその場にいられるのか?自己成長できるのか?などなど)ということがとても大きな要素です。
もちろん、外的報酬が多いのもありがたいです。