2017-05-24 | ブログ
『哲学する子どもたち ~バカロレアの国 フランスの教育事情~』
中島さおり著、河出出版、2016年
https://www.amazon.co.jp/哲学する子どもたち-バカロレアの国フランスの教育事情-中島-さおり/dp/4309247814/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1495434957&sr=8-1&keywords=哲学する子どもたち
を読みました。
この頃、気になっていた各国の「教育事情」に加えて、日本でもアクティブ・ラーニングが導入されつつあります(と言っても、言葉は「能動的学習」となりましたが)。
アクティブ・ラーニングはPISAの学力調査を意識した取り組みでもあるのだろうと想像しています。
PISA調査は、OECDが3年に1度行っているテストで、知識のみを問うものではなく、知識を活用して思考し論述してキーコンピテンシーの習熟度を問うものです。
なぜ、経済団体であるOECDが教育について調査するのか?が気になります。それは、グローバルな経済、グローバルな社会になっていくにつれて、多様な人種、多様な文化をもつ人々が一緒に仕事をしていくことが想定され、その際には、話し合って合意することが求められます。異なる背景をもつ人々なので、あうんの呼吸は期待できません。お互いが納得して出した答えでなければ仕事は進みません。また、ICTが進展すると知識だけもっていても活用できなければ、ICTの方が正確で速い!ということになります。知識をつなげて思考する。これが今後の経済を担う人材に求められているのです。(そこに、話し合い、合意していくというスキルが必要になってきます)
長らくPISA調査で1位にあったフィンランドは、授業に論理的、話し合いの要素をふんだんに入れ、そこから気づきや学びを子どもたちが自分でつかみ取っていく進め方をしており、フィンランド・メソッドと呼ばれています。このフィンランド・メソッドには、ファシリテーションの要素やスキルがちりばめられていますので、FAJ(日本ファシリテーション協会)では、10年ほど前から話題になっていました。
北欧の国々はPISA調査の結果は上位にあり、さらに合計特殊出生率も先進国の中では高いということをみると、何か関連があるのかもしれないと思えてきます。
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/1550.htmlより
そして、北欧に加えてもう一国。フランスが合計特殊出生率が上向いてきています。
その秘訣の一つは、以前のブログ(「子育ても勉強すれば、安心『フランスはどう少子化を克服したか』http://social-acty.com/blog/date/2017/01/)にも記載しました。
では、そのフランスはどんなことを学校で学ぶのでしょう?そこをこの本では体験談として書かれています。
高校生の論述を学ぶ
前提として、フランスも移民が増えています。移民の子どもたちにも平等に教育を受ける機会があることを保障しています。
移民の国では、道徳といっても一様な価値観というのはありません。それぞれがもつ異なる文化や宗教の背景があるからです。
しかし、どんな文化をもっていても、何かを決断するときの考え方の「軸」は必要です。それをフランスでは「哲学」を学ぶことで考え方の「軸」をおしつけではなく、子どもが自分なりに形成していくことを助けているようです。
そして、「『高校最終学年で勉強するのは哲学ではない、哲学することなのだ』とフランスの哲学教師たちは言う。(p35)」
学ぶことは、「哲学者の考えについて学ばないわけではないが、それが目的ではない。それを使って自説をどう展開するかのほうに、はるかに重きが置かれているのだ。(p35)」というのです。
そして、その目的は「哲学を通じて自由に考える市民を養成すること(p36)」。
市民ひとり一人が考えるというのは、民主主義の基本です。その軸をつくっていくのですね。さすが、フランス革命の国、市民が自由と権利を獲得した国だなぁと思いました。
ここから、高校生が学ぶ論述の方法をご紹介します。たいへん参考になります。これからは、この方法を念頭に論文を書かなくては!と思い、p40~45をまとめてみました。
「論述とは」
フランスの学校で教えている論述とは、
「哲学についての言述ではなく、それ自体が哲学的な意味でなければならない。つまり、主題についての明確で厳密な問題提起に立脚して、それに対して説を唱えるものでなければならない。説とは、問題への答えである。君達の持っている知識を使いながら、哲学において、可能な説の有効性を証明することである。」
論述の手順
1.序論
(1)与えられた問題をパラフレーズして、自分の言葉で書き直す(リライト)
ここで、出てくる用語を定義していく(概念化)
(2)問題提起:与えられた主題に、論理の一貫した答えが複数あって、それが互いに矛盾するという構図をつくる
論理的にもっともと思われることを二つ客観的に展開して、それを突き合わせることが「考える」ということ(自分の思い込みを一方的に唱えるのは「考える」ということではない)
2.本論
それぞれの答えを発展させる
(1)見つけた複数の答えをそれぞれ極端に推し進めてみる。異なる答えの相互の間に、対立点をたくさん見つけること
3.結論
(1)これら双方の説を調整して別の道を見つけるのが適当であると導き出す
典型的な組み立ては、テーズ(テーゼ)、アンチテーズ、サンテーズ(テーズとアンチテーズの混合であってはいけない)
どこで、哲学者の考え方や文章をつかうのか?
・設問の文章を理解するとき(設問の擁護を理解し、定義する)
・論述の中で、自分の説を裏付けるために引用する(説明され、主題に関係づけられてはじめて根拠となる)
◎先人の考えたことを学ぶことでこそ、自分の考えを発展させることができる
こんなに論理建てた論述ができるのは、知識を詰め込むだけではできません。知識を授業だけでなく、生活にともなうさまざまな判断したり考えたりする場面で知識と関連付けて活用できること、1つの論理による結論だけでなく、もう一つの論理を押しすすめ、そのうえで決断するということを繰り返し行うことが必要とされます。
それは授業やテストのときだけには収まらず、人生の中で「考える」ことが身についているので、あらゆる場面で、哲学的な論述に基づいて結論を導き出していくのだろうと想像できます。
小学生から「哲学」を学び、「論述のしかた」を学んでいると書かれています。
PISA調査(グローバルに経済活動する中で求められる人材を育成するための調査ということができます)にも違和感が少ないのでしょう。異文化の人たちと物事を進めていくためには、このような思考方法が必要だということが見えてきます。
経験から書かれたフランスの教育事情でした。とてもいきいきと書かれていて、自分が母になったような錯覚を覚えながら楽しく読みました。論述のことやPTAの組織や運営のことなど、興味深い内容が山盛りでした。
まだまだご紹介したいことはあるのですが、まずは、哲学を学ぶということの捉え方の違いと、論述の方法を教えてもらっているフランスの学生(論述の方法を教えてもらえるというのが、衝撃的でした)をご紹介しました。
ファシリテーターとしても、プロセスを考える上で何を軸にして考え、実践するのに必要なことだと思いました。
2017-05-10 | ブログ
尊敬する研究者の一人(勝手に尊敬しているだけなのですが)、暉峻淑子さんが「対話」についての2017年1月に著書を出版されました。
(http://www.chunichi.co.jp/article/feature/anohito/list/CK2017032402000251.htmlより)
『対話のある社会へ』岩波新書です。
暉峻淑子さんの書籍『豊かさとは何か』を読んだとき、西ドイツ(当時)の生活の豊かさにふれ、「西ドイツに住みたい!」と思い、ドイツ語会話まで習い始めました。残念なことにドイツ語会話のレッスンは、途中でリタイアしてしまいましたが…。
それほどに影響力のある方が、ワークショップを組み立てる際に大切にしている「対話」をタイトルに出版してくださったことは、大変うれしいことでしたので早速、購入しました。
内容の簡単なご紹介
第1章 思い出の中の対話
心に残る対話の体験、対話の中の言葉などが語られています。ただし、対人間だけではなく、本との対話、本の中での対話であっても、対話であると言っています。心に残る人間との対話の経験がないという方もいらっしゃるそうです。
第2章 対話に飢えた人々
暉峻さんがスタートメンバーのひとりである「対話的研究会」のはじまりとその理由、対話のもたらした心や人の変化などが語られています。この研究会に出て、人には人生があり、語ることができる想いや考え、信念をもっていることを体感したと書かれています。人は語ることをたくさん持っているのです。ただ、今まで語る機会が少なかっただけだったのです。
第3章 対話の思想
対話が必要であることの思想的、実証的な理論が語られています。対話は、そもそも人間が自分の存在を確認できる本質的なものであり、人間が求めているものである。そして、平和のためにも対話が続いていることが必要だという帰結に至っています。
第4章 対話を喪ったとき
対話が排除されつつある今、対話がないとどのような不都合が起こっているのか、なぜ日本では対話が根付かないのかについて、事例を挙げながら考察されています。
第5章 対話する社会へ
対話が行われた(試みられた)事例、 その影響、対話を積み重ねた先にあるものなどについて、語られています。労働組合が非正規雇用の労働者を全員正社員にした事例やドイツのプラーヌンクスツェレ、学校教育の現場、道路の拡幅の際の住民と行政の協働の事例などが語られています。最後の一文には「対話する社会への努力が、民主主義の空洞化を防ぎ平和をつくり出しているのです。」と締めくくられています。
このブログでも『声の文化』についてhttp://social-acty.com/blog/2231/ や「社会構成主義と対話」http://social-acty.com/blog/1404/ など、対話をタイトルにする書籍のご紹介とともに、ソーシャル・アクティのワークショップの基本的なスタンスとして「対話」を大切にしていることもご紹介してきました。暉峻さんと同じ想いであったことがとてもうれしいです。
「対話」は人間が求めているものとは?
この著書の中で、『オープンダイアローグとは何か』『オープンダイアローグ』が紹介されていました。これラの書籍は、フィンランドで統合失調症を対話によって治す方法と事例が書かれています。このように、「対話によって、薬なしで治癒できるとすれば、対話がいかに本源的な人間の本性に根差す行為であるかを思わせる報告」と評価しています。
(https://www.amazon.co.jp/オープンダイアローグ-ヤーコ・セイックラ/dp/4535984212/ref=sr_1_2?ie=UTF8&qid=1494384058&sr=8-2&keywords=オープンダイアローグ)
(https://www.amazon.co.jp/オープンダイアローグとは何か-斎藤環/dp/4260024035/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1494384058&sr=8-1&keywords=オープンダイアローグ)
また、「自分を知るためには他者の存在が必要であることを自覚させてくれるのも、対話の持つ特典かもしれません。」とあります。対話をすることで、自分を確立する、自分の存在意義を考え、気づくことができていくのです。そして、「気づく」前の段階である「考える」ということも対話に伴っている行為です。「考える」ということがなくなっていくとハンナ・アーレントのいう「悪の凡庸(自分の行為がもたらす影響などを考えることを止め、与えられたミッションを粛々と執行していくというような意味)」に陥っていきます。それがたった一人ではなく大半の人がそこに陥ってしまうと…。
「暴力的解決に対する人間的な対処法であり、人間が獲得してきた特権の一つが対話でないかとさえ思われるのです。」とあります。話せばわかる、というよりも、対話をして「ああ。こういう考え方をする人もいるのだなぁ」と多様性を認めるということになります。また、対話によってお互いの信頼感が生まれてきます。違和感や文化の違いからくる気持ちのすれ違いの解決策として、対話が必要だといわれている理由の一つなのでしょう。
「戦争・暴力の反対語は、平和ではなく対話です」これは、暴力的解決としての戦争は対話で防げるだろうとおっしゃっているのだと理解しています。ファシリテーターとして尊敬しているアダム・カヘン氏の著書『手ごわい問題は対話で解決する』にも書かれています。
(https://www.amazon.co.jp/手ごわい問題は、対話で解決する-アダム・カヘン/dp/4990329848/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1494384250&sr=8-1&keywords=手ごわい問題は対話で解決する)
そして、対話によって安心感を得ていること、異なる考えであっても同じ人間という土台を共有していること、なかなか話が通じなくても共存できるという肯定感をもてること、信頼感があること、討論をプラスに生かそうとする意志につながることを強調しています。
対話のある社会では、人々は分断されずに、お互いの存在を肯定することができ、人間として共通する土台を理解することで、ひとつになっていくことが出来そうです。
今まで、私なりに勉強してきたこと、実践し感じたことを暉峻さんがおっしゃってくださった。と勝手にうれしくなってしまいました。
対話のワークショップをすると、本当に参加者の皆さんが「くっついて」いくのを感じます。昨年度、関わらせていただいた美濃加茂市のまちひとしごと「カミーノ(女性が活躍する美濃加茂市を目指した地方創生の愛称です)」で、女性だけで考えた7つの事業があります。全部で10回近くワークショップやお試しイベントなどをしました。ほとんどの会を対話を中心にしたワークショップとしました。最後の会で、どのプロジェクトに参加したいかについてお聞きしたところ、ほとんどの方が「どのプロジェクトでもOK」とのお返事をくださいました。たいへんうれしいコメントでした。これは、「くっつく」一つの姿であると思えるからです。
美濃加茂市内でバラバラに生活していた方々が、ワークショップを通して知り合い、語り合ったことで、お互いの信頼が生まれ、事業へのコミットも高くなったのではないかと考えています。「くっついた」のではないかと。
さらに、参加者のみなさんも、対話を求めていたのではないかと感じるのです。ワークショップ中でも、対話の時間はたいへん短く感じるほどに語り合いました。メンバーチェンジをしても、すぐに内容に深く入っていけるのは、みなさんの中に信頼感を伴う対話を求めていたからなのかもしれません。
対話に必要なのは
まずは、聴くこと。と書かれています。そして、双方向のコミュニケーション。聴くだけ、話すだけの一方通行では対話にはなりませんよね。お互いの言葉のやりとりの中で違いに気づいたり、その背景に思いを巡らせたり、考え、探求していったりできることが対話と名付けられているのです。
そして、対等の立場にたつ誠実な聴き手が必要とも言っています。誠実な聴き手がいることで、話し手も誠実になり、話し手の考えが引き出されていくと。
「対話とは、ただ言葉で話し合うだけでなく、対話しようとする意思、行為のすべてなのだと悟りました。」この言葉を胸に、私のフィールドとして与えられたワークショップの中で実現していけるのか!について考え、試みていくことがミッションなのかもしれないと悟りました。
2017-05-08 | ニュースレター
昨年度、地域の女性が集まってボウサイまちづくり会議をしました。
5町の幹部が集まる報告会でも報告し、好評をいただきました。
ニュースレター第68号は、女性の生活に密着した情報と配慮からできたチラシのご報告です。
こちかからご覧ください。