2017-07-17 | ブログ
昨年度から始まった「女性のボウサイまちづくりの会」で、水消火器体験と特殊車両の視察をしました。
消防署の仕事は人命にかかわる大切な仕事であることを再確認するとともに、税金がちゃんと使われているなぁと感じました。
(納税者を意識して見学すると、税金を払おう!という気持ちになるのでは?と思いました。)
水消火器体験
水消火器とは、消火器の中身が消火剤ではなく、水です。
消火剤はお値段も高そうですし、後始末もいろいろと気を使わなければいけないような気がしますので、水であれば気軽に体験できます。
消火器体験は、防災訓練でもなかなか体験できない(というよりも、その時は人数が多いので、ついつい遠慮してしまうようです)ので、火を使うことが多い女性が消火器を使えるようになっていないと!ということで消防署へ行区計画をしたのです。そして、一人ずつ体験をさせていただきました。
意外に簡単でした。
コツは、箒で掃くように近づくことと、火ではなく燃えている物にかけることだそうです。
特殊車両1 レッドサラマンダー
日本では、ここ、岡崎市だけに配備されています。
なぜ、岡崎?というと、日本列島の真ん中あたりで高速道路に近い消防署という条件で手を挙げた自治体が岡崎だったのだとか…
http://www.okazaki-renaissance.org/discover/show/23(写真も)
サラマンダーは火を使う妖精(https://ja.wikipedia.org/wiki/サラマンダー_(妖精))から命名されたようです。
総務省らの貸与ですが、メンテナンスは岡崎市が負担なのだそうです。メンテナンス費用は残念ながら、わかりませんでした。
(参考に?救急車や消防車は3か月に1度の定期点検があるそうです。)
全地形対応で、通常の消防車などでは入れない地形のところへ物資や隊員を運び、救助活動などができるとのことです。
水深1.2mまでなら活躍できるとか。
ただし、現地までは専用の運搬車両に乗って移動、北海道や九州へは自衛隊の小牧基地から空輸してもらうそうです。
(レッドサラマンダーの最高時速は50km/h。意外に遅いなぁと思ったのですが、現場ではそこまでも速く走らなくても良いのですから、これで十分かも。)
平成25年に配備されてから、ずっと出番がなく(ないほうが喜ばしいのですが)、見学の日の数日前に一度、岡崎市内の山の方へ出動したのですが、活動できずに帰ってきたとのことでした。
http://www.asahi.com/articles/ASK6P4DMRK6POBJB003.html
そして、まだまだ多くの方が避難していらっしゃる九州の豪雨災害。レッドサラマンダーが日田市でお役にたったようです。
http://digital.asahi.com/articles/ASK785QZ7K78TPJB010.html?rm=266
岡崎市民としては、お役に立ったことはうれしく、税金を納める意義があるとおもいました。
特殊車両2 支援車
被災地へ支援にいくときの車両だそうです。
隊員が自炊できたり、寝泊まり、作戦会議もできるようなしつらえになっていました。
現地のみなさんにはご迷惑をおかけしないのは、ボランティアも消防も同じなのですね。
これは、各都道府県に1台配備されているとのことです。
3.11のときも出動したとのことでした。
特殊車両3 救急車
お馴染みの車両ではありますが、中に入ったのは、初めての経験でした。
ご一緒に見学に行った女性の中には、ご家族に付き添って乗ったことがあるという方もいらっしゃいました。
標準装備は、AED、心電図・呼吸のモニター、酸素ボンベ、吸引器などだそうです。
出動するケースによって装備するものをプラスして出動するそうです。
その後、地震や火事の時にどうすればよいか?普段からできることや災害時の対応などについてDVDと質問で、学びました。
消防署の方いわく、
「地震などが発生したときには、多方面から電話が入り、たぶん行けません。みなさんが自助、共助で助け合ってください。」
そして、女性だけで消防署訪問は珍しいらしく、
「地域の女性のこのような活動は素晴らしいので、ぜひ、今後も続けて行ってください。」とコメントいただきました。(うれしかったです)
水消火器で消火器を(たぶん)使えるようになり、特殊車両を見学して、いざというときは、消防署は頼りになるなぁと思ったのですが、
いや、いざとなると、出動依頼がありすぎて来てもらえないのだろうなぁと思うと、やはり、普段のお付き合いでつながっておくことが一番心強いのだと改めて考えました。
2017-06-21 | ブログ
先日、京都に行ってきました。
今の季節はアジサイや花しょうぶ、変わったところで半夏生と美しい花が見ごろでした。
紅葉の名所 瑠璃光院
今回は「青紅葉」をメインに行ってきました。紅葉の名所はそのまま青紅葉の名所でもあるのですね。(当然といえば、当然でした…)
紅葉がとても印象的で、一度、訪れてみたいと思っていた「瑠璃光院」。
4月15日~6月15日までが特別拝観だとか…。秋を待てずに春の様子を見に行ってきました。
瑠璃光院は、壬申の乱で大海人皇子が傷をいやしたという「釜風呂」が起源のようです。その後、平安貴族や武士のやすらぎの里になっていたそうです。
そして、大正末期から昭和にかけて大改造され、今の建物とお庭ができあがったとのことです。
http://rurikoin.komyoji.com/about/
行ってみると、玄関からお庭へきれいな(そして冷たそうな)水を配した、もみじの木々が見事なお寺でした。
そして、あこがれのお2階にある写経をするための書院へ。
ここでは、文机が窓口に並べられ、もみじを反映しており、水に映ったように見えます。
水に映る山や木は、美しさが倍増し、その静かなたたずまいに見入ってしまいます。それが、文机というのは初めてでした。
書院では、写経をする若い方々もいらして、少し驚きました。入口でいただいたセットの中に、ボールペンと写経の用紙が入っていました。
観光客が少なければ、気持ちを落ちつけて写経に取組めそうでした。(今回は、ざわざわしていましたので、集中するのは難しそうでした)
1階におりて書院に座り、お庭を見ていると、心が澄んでいくようです。きっと、こんな気持ちを味わいに訪れる人が多いのでしょうね…
そういえば、行く先々のお寺で座ってお庭を見ている人たちがたくさんいました。そういう楽しみ方をする人が増えているのではないか?と感じました。
御朱印帳
御朱印は
「もともとは、お経を書き写すして寺院に納める「納経」の証しとしていただくものでした。御朱印をいただく場所が寺院の「納経所」となっていることもありますが、これはその折の名残。時代を経て、お参りした証として授与されることが一般的になってきましたが今でも一部の寺においては、納経をしないと御朱印を授与していないところもあります。
現在の御朱印は、神職の方や住職が御朱印帳や納経帳に参拝した年月日、寺社名を墨書きし、朱印を押しています。寺社によって墨書きに寺社名やご本尊、御本殿の名称などが書かれます。また、押し印も寺社の個性を表すものが押印されるなど所によって異なり、そのバリエーションの豊かさを楽しもうと参拝の記録として集める人が増えています。(http://gosyuinbito.com/archives/1071より)」
とのことです。この頃、御朱印帳に墨書、押印していただいている人が増えたようです。以前は、御朱印をいただく観光客はあまり気にならなかったのですが、ここ数年、「あ。御朱印をいただいているのだな」と分かるほど並んでいるのが見えるようになってきました。
そこで、今回、御朱印帳を購入し挑戦することにしました。
やり始めると、「大人のスタンプラリー」のようなものだとタクシーの運転手さんがおっしゃっていましたが、本当にそうでした。
集めることが大きな目的になり、できるだけたくさんの寺社を訪れて、記載してもうらおう!という気持ちになりました。
自分で計画を立てて訪れる…大人が熱中できるものでした。(この日、20000歩近く歩いていました。夢中になるのも体調と相談しながらにしないといけませんね)
昔の人々も御朱印帳に記載してもらい、ページが埋まっていくのを楽しみに納経していたのでしょう。
(昔からの「ゲーム」かもしれません)
ゲームが楽しいのは日本人に限りません。外国の方も一緒に御朱印帳をもって並んでいました。
御朱印帳に記載される内容を見ると、祭ってある神様や仏様のお名前もわかります。どなたを祭っているのか、何を司っている神様なのか、どんな方なのか…を調べることで、改めて、由緒について知る機会にもなりました。
より深い、より楽しめる観光のきっかけになるのだなぁと思いました。
わが社のある岡崎市でも、御朱印帳が販売されている神社があるらしく…(https://ameblo.jp/sakurazaka128/entry-12136055676.html)
岡崎城のすぐ近くにある「菅生神社(すごうじんじゃ)」の御朱印帳が紹介されています。
菅生神社の前を流れる菅生川では、毎年花火大会が行われます。この花火大会は、今では「観光花火大会」となっていますが、もともとは菅生神社のお祭り(菅生祭)が発生のようです。(http://sugojinja.jp/whatisSugo.html)
地元なのですが、訪れることは稀でした。灯台下暗しでした…。〇十年ぶりに、行ってみます。
御朱印帳は、観光先の拝観を促すだけでなく、地元を見直す契機にもなりそうです。
2017-06-08 | ブログ
5月27日(土)、28日(日)で、福岡市で開催された日本ファシリテーション協会のシンポジウムに行ってきました。
シンポジウムの概要は、6月のニュースレターでご紹介しました。
そのときに少しだけ歩いた博多のまちについてのご報告です。
深夜なのに、オープンしている飲食店が多い
愛知県に住んでいるからでしょうか?
夜は最終電車の少し前、駅の上にある飲食店でも11:00くらいに「ラストオーダー」と言われることが良くあります。これが普通だと思っていました。もちろん、繁華街では深夜まで開いているお店もたくさんあるのでしょう…
シンポジウム前日の夜、21:00頃、ホテルから出てコンビニへ向かいました。
すると、「深夜カフェ」を扱った本が置いてあり、ホテルの近くにも何軒かあることがわかり、行ってみることにしました。
(女性2人なら怖くないよね、と)
すると、意外にも地元の人が営んでいるようなお店がたくさんオープンしていました。もちろん、カフェだけでなく、居酒屋やベトナム料理店、〇〇料理店という飲食店まで。(愛知の地元ではこのようなお店が深夜まで開いていることは見かけないのです)
5時まで営業。というのも珍しくないようでした。
例えば、「おしゃべりする夜カフェ、夜ご飯特集」とか! https://www.hotpepper.jp/SA91/Y700/dncLU0009/
点々と灯っているお店の中から、地元の食材を扱っているのをウリにしている居酒屋に入ってみました。
おいしく、夜食というよりも夕食をもう一度いただいてしまいました。
深夜25:00、ホテルへ帰る途中でも若者がたくさん歩いていました。しかも、女性が一人で歩いていたり…意外に無防備でした。
治安がいいのだなぁと感じました。
那珂川沿い
翌日、懇親会会場へ行く途中で寄り道しました。
幹線道路から一本入ると、趣のある古民家を改装したようなお店がたくさんありました。
歩いたあたりは「渡辺」という地名でした。なんでも、渡辺さんという篤志家の方が待ちの繁栄に役立ててほしいと土地を寄付したので、この地名にしたのだとか…。奇特な方がいらしたのですね。
福岡市役所の庁舎へ
その道を抜けて、大通り。福岡市役所の庁舎を外からでしたが拝見しました。
県庁も以前は市役所の近くだったそうですが、移転したとのこと。跡地はアクロスという建物になっているそうです。
アクロスは、10年ほど前に福岡でファシリテーション協会のフォーラムがあったときに、立ち寄ったよころです。
頑張って、外がわの階段を上っていったのですが、残念なことに屋上は時間外となっていて施錠されていました。(残念なことに、当時、写真を撮っていなかったようです。写真、たくさん撮っておくことは必要だと、改めて痛感しました。)
今では、そんなこともあったなという楽しい思い出なのですが、再挑戦する気にならず…。ただ、木が大きく育っているのが印象的でした。
庁舎の裏側では、広場で「福岡ICHIBANのぼせ祭り」というイベントがあり、「巨大角打ち」と銘打って地元の食材をあつかう店が出ていました。
https://yokanavi.com/event/75341/
市役所の広場で飲食のイベントが行われていること、建物から屋根がでていてステージになっていることに驚きました。そして、このイベントは金曜日~日曜日。金曜日はなんと13:00~なのです。平日の昼間から、市役所の広場でアルコール…
なんて、オープンな市役所なんだろう!
市役所の広場で、マルシェなどが開催されるのは目にしていたのですが、アルコールがメインのイベント。それも、3日間。
民とともにあろう。市民が楽しめる場を提供しよう。という姿勢が伝わってきました。
もちろん、福岡市の出展ブースもありました。
美濃加茂市で市庁舎整備に少し関わらせていただいています。その中でも、市民の憩いの場になるような市庁舎、立ち寄りたくなる市庁舎というキーワードが出ていました。こんな広場の使い方をイメージしているかはわかりませんが、こういう在り方も素敵だなぁと思いました。
博多駅前
昨年11月に博多駅前のショッキングな映像がありました。道路が陥没!
http://www.asahi.com/articles/ASJC82Q11JC8TIPE002.htmlより
どこがどう違うのか?現在、痕跡はあるのか?とこちらは、野次馬として見てきました。
道路の色が異なるところから、「あ。ここから、ここまで」と分かりました。
当時は、短期間での修復工事、その技術の高さに驚いたものです。
半年経った今は、すっかり落ち着いていました。数人、同じように写真を撮っている人はいました。
福岡市は、愛知県と異なる雰囲気のまちでした。
前回も感じたのですが、とても開放的で訪れる人を楽しませようとしていることが伝わってきます。
「アジアのリーダー都市へ FUKUOKA NEXT」 この言葉に納得!のまちでした。
2017-05-24 | ブログ
『哲学する子どもたち ~バカロレアの国 フランスの教育事情~』
中島さおり著、河出出版、2016年
https://www.amazon.co.jp/哲学する子どもたち-バカロレアの国フランスの教育事情-中島-さおり/dp/4309247814/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1495434957&sr=8-1&keywords=哲学する子どもたち
を読みました。
この頃、気になっていた各国の「教育事情」に加えて、日本でもアクティブ・ラーニングが導入されつつあります(と言っても、言葉は「能動的学習」となりましたが)。
アクティブ・ラーニングはPISAの学力調査を意識した取り組みでもあるのだろうと想像しています。
PISA調査は、OECDが3年に1度行っているテストで、知識のみを問うものではなく、知識を活用して思考し論述してキーコンピテンシーの習熟度を問うものです。
なぜ、経済団体であるOECDが教育について調査するのか?が気になります。それは、グローバルな経済、グローバルな社会になっていくにつれて、多様な人種、多様な文化をもつ人々が一緒に仕事をしていくことが想定され、その際には、話し合って合意することが求められます。異なる背景をもつ人々なので、あうんの呼吸は期待できません。お互いが納得して出した答えでなければ仕事は進みません。また、ICTが進展すると知識だけもっていても活用できなければ、ICTの方が正確で速い!ということになります。知識をつなげて思考する。これが今後の経済を担う人材に求められているのです。(そこに、話し合い、合意していくというスキルが必要になってきます)
長らくPISA調査で1位にあったフィンランドは、授業に論理的、話し合いの要素をふんだんに入れ、そこから気づきや学びを子どもたちが自分でつかみ取っていく進め方をしており、フィンランド・メソッドと呼ばれています。このフィンランド・メソッドには、ファシリテーションの要素やスキルがちりばめられていますので、FAJ(日本ファシリテーション協会)では、10年ほど前から話題になっていました。
北欧の国々はPISA調査の結果は上位にあり、さらに合計特殊出生率も先進国の中では高いということをみると、何か関連があるのかもしれないと思えてきます。
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/1550.htmlより
そして、北欧に加えてもう一国。フランスが合計特殊出生率が上向いてきています。
その秘訣の一つは、以前のブログ(「子育ても勉強すれば、安心『フランスはどう少子化を克服したか』http://social-acty.com/blog/date/2017/01/)にも記載しました。
では、そのフランスはどんなことを学校で学ぶのでしょう?そこをこの本では体験談として書かれています。
高校生の論述を学ぶ
前提として、フランスも移民が増えています。移民の子どもたちにも平等に教育を受ける機会があることを保障しています。
移民の国では、道徳といっても一様な価値観というのはありません。それぞれがもつ異なる文化や宗教の背景があるからです。
しかし、どんな文化をもっていても、何かを決断するときの考え方の「軸」は必要です。それをフランスでは「哲学」を学ぶことで考え方の「軸」をおしつけではなく、子どもが自分なりに形成していくことを助けているようです。
そして、「『高校最終学年で勉強するのは哲学ではない、哲学することなのだ』とフランスの哲学教師たちは言う。(p35)」
学ぶことは、「哲学者の考えについて学ばないわけではないが、それが目的ではない。それを使って自説をどう展開するかのほうに、はるかに重きが置かれているのだ。(p35)」というのです。
そして、その目的は「哲学を通じて自由に考える市民を養成すること(p36)」。
市民ひとり一人が考えるというのは、民主主義の基本です。その軸をつくっていくのですね。さすが、フランス革命の国、市民が自由と権利を獲得した国だなぁと思いました。
ここから、高校生が学ぶ論述の方法をご紹介します。たいへん参考になります。これからは、この方法を念頭に論文を書かなくては!と思い、p40~45をまとめてみました。
「論述とは」
フランスの学校で教えている論述とは、
「哲学についての言述ではなく、それ自体が哲学的な意味でなければならない。つまり、主題についての明確で厳密な問題提起に立脚して、それに対して説を唱えるものでなければならない。説とは、問題への答えである。君達の持っている知識を使いながら、哲学において、可能な説の有効性を証明することである。」
論述の手順
1.序論
(1)与えられた問題をパラフレーズして、自分の言葉で書き直す(リライト)
ここで、出てくる用語を定義していく(概念化)
(2)問題提起:与えられた主題に、論理の一貫した答えが複数あって、それが互いに矛盾するという構図をつくる
論理的にもっともと思われることを二つ客観的に展開して、それを突き合わせることが「考える」ということ(自分の思い込みを一方的に唱えるのは「考える」ということではない)
2.本論
それぞれの答えを発展させる
(1)見つけた複数の答えをそれぞれ極端に推し進めてみる。異なる答えの相互の間に、対立点をたくさん見つけること
3.結論
(1)これら双方の説を調整して別の道を見つけるのが適当であると導き出す
典型的な組み立ては、テーズ(テーゼ)、アンチテーズ、サンテーズ(テーズとアンチテーズの混合であってはいけない)
どこで、哲学者の考え方や文章をつかうのか?
・設問の文章を理解するとき(設問の擁護を理解し、定義する)
・論述の中で、自分の説を裏付けるために引用する(説明され、主題に関係づけられてはじめて根拠となる)
◎先人の考えたことを学ぶことでこそ、自分の考えを発展させることができる
こんなに論理建てた論述ができるのは、知識を詰め込むだけではできません。知識を授業だけでなく、生活にともなうさまざまな判断したり考えたりする場面で知識と関連付けて活用できること、1つの論理による結論だけでなく、もう一つの論理を押しすすめ、そのうえで決断するということを繰り返し行うことが必要とされます。
それは授業やテストのときだけには収まらず、人生の中で「考える」ことが身についているので、あらゆる場面で、哲学的な論述に基づいて結論を導き出していくのだろうと想像できます。
小学生から「哲学」を学び、「論述のしかた」を学んでいると書かれています。
PISA調査(グローバルに経済活動する中で求められる人材を育成するための調査ということができます)にも違和感が少ないのでしょう。異文化の人たちと物事を進めていくためには、このような思考方法が必要だということが見えてきます。
経験から書かれたフランスの教育事情でした。とてもいきいきと書かれていて、自分が母になったような錯覚を覚えながら楽しく読みました。論述のことやPTAの組織や運営のことなど、興味深い内容が山盛りでした。
まだまだご紹介したいことはあるのですが、まずは、哲学を学ぶということの捉え方の違いと、論述の方法を教えてもらっているフランスの学生(論述の方法を教えてもらえるというのが、衝撃的でした)をご紹介しました。
ファシリテーターとしても、プロセスを考える上で何を軸にして考え、実践するのに必要なことだと思いました。
2017-05-10 | ブログ
尊敬する研究者の一人(勝手に尊敬しているだけなのですが)、暉峻淑子さんが「対話」についての2017年1月に著書を出版されました。
(http://www.chunichi.co.jp/article/feature/anohito/list/CK2017032402000251.htmlより)
『対話のある社会へ』岩波新書です。
https://www.amazon.co.jp/対話する社会へ-岩波新書-暉峻-淑子/dp/4004316405/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1494251311&sr=8-1&keywords=対話する社会へ
暉峻淑子さんの書籍『豊かさとは何か』を読んだとき、西ドイツ(当時)の生活の豊かさにふれ、「西ドイツに住みたい!」と思い、ドイツ語会話まで習い始めました。残念なことにドイツ語会話のレッスンは、途中でリタイアしてしまいましたが…。
それほどに影響力のある方が、ワークショップを組み立てる際に大切にしている「対話」をタイトルに出版してくださったことは、大変うれしいことでしたので早速、購入しました。
内容の簡単なご紹介
第1章 思い出の中の対話
心に残る対話の体験、対話の中の言葉などが語られています。ただし、対人間だけではなく、本との対話、本の中での対話であっても、対話であると言っています。心に残る人間との対話の経験がないという方もいらっしゃるそうです。
第2章 対話に飢えた人々
暉峻さんがスタートメンバーのひとりである「対話的研究会」のはじまりとその理由、対話のもたらした心や人の変化などが語られています。この研究会に出て、人には人生があり、語ることができる想いや考え、信念をもっていることを体感したと書かれています。人は語ることをたくさん持っているのです。ただ、今まで語る機会が少なかっただけだったのです。
第3章 対話の思想
対話が必要であることの思想的、実証的な理論が語られています。対話は、そもそも人間が自分の存在を確認できる本質的なものであり、人間が求めているものである。そして、平和のためにも対話が続いていることが必要だという帰結に至っています。
第4章 対話を喪ったとき
対話が排除されつつある今、対話がないとどのような不都合が起こっているのか、なぜ日本では対話が根付かないのかについて、事例を挙げながら考察されています。
第5章 対話する社会へ
対話が行われた(試みられた)事例、 その影響、対話を積み重ねた先にあるものなどについて、語られています。労働組合が非正規雇用の労働者を全員正社員にした事例やドイツのプラーヌンクスツェレ、学校教育の現場、道路の拡幅の際の住民と行政の協働の事例などが語られています。最後の一文には「対話する社会への努力が、民主主義の空洞化を防ぎ平和をつくり出しているのです。」と締めくくられています。
このブログでも『声の文化』についてhttp://social-acty.com/blog/2231/ や「社会構成主義と対話」http://social-acty.com/blog/1404/ など、対話をタイトルにする書籍のご紹介とともに、ソーシャル・アクティのワークショップの基本的なスタンスとして「対話」を大切にしていることもご紹介してきました。暉峻さんと同じ想いであったことがとてもうれしいです。
「対話」は人間が求めているものとは?
この著書の中で、『オープンダイアローグとは何か』『オープンダイアローグ』が紹介されていました。これラの書籍は、フィンランドで統合失調症を対話によって治す方法と事例が書かれています。このように、「対話によって、薬なしで治癒できるとすれば、対話がいかに本源的な人間の本性に根差す行為であるかを思わせる報告」と評価しています。
(https://www.amazon.co.jp/オープンダイアローグ-ヤーコ・セイックラ/dp/4535984212/ref=sr_1_2?ie=UTF8&qid=1494384058&sr=8-2&keywords=オープンダイアローグ)
(https://www.amazon.co.jp/オープンダイアローグとは何か-斎藤環/dp/4260024035/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1494384058&sr=8-1&keywords=オープンダイアローグ)
また、「自分を知るためには他者の存在が必要であることを自覚させてくれるのも、対話の持つ特典かもしれません。」とあります。対話をすることで、自分を確立する、自分の存在意義を考え、気づくことができていくのです。そして、「気づく」前の段階である「考える」ということも対話に伴っている行為です。「考える」ということがなくなっていくとハンナ・アーレントのいう「悪の凡庸(自分の行為がもたらす影響などを考えることを止め、与えられたミッションを粛々と執行していくというような意味)」に陥っていきます。それがたった一人ではなく大半の人がそこに陥ってしまうと…。
「暴力的解決に対する人間的な対処法であり、人間が獲得してきた特権の一つが対話でないかとさえ思われるのです。」とあります。話せばわかる、というよりも、対話をして「ああ。こういう考え方をする人もいるのだなぁ」と多様性を認めるということになります。また、対話によってお互いの信頼感が生まれてきます。違和感や文化の違いからくる気持ちのすれ違いの解決策として、対話が必要だといわれている理由の一つなのでしょう。
「戦争・暴力の反対語は、平和ではなく対話です」これは、暴力的解決としての戦争は対話で防げるだろうとおっしゃっているのだと理解しています。ファシリテーターとして尊敬しているアダム・カヘン氏の著書『手ごわい問題は対話で解決する』にも書かれています。
(https://www.amazon.co.jp/手ごわい問題は、対話で解決する-アダム・カヘン/dp/4990329848/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1494384250&sr=8-1&keywords=手ごわい問題は対話で解決する)
そして、対話によって安心感を得ていること、異なる考えであっても同じ人間という土台を共有していること、なかなか話が通じなくても共存できるという肯定感をもてること、信頼感があること、討論をプラスに生かそうとする意志につながることを強調しています。
対話のある社会では、人々は分断されずに、お互いの存在を肯定することができ、人間として共通する土台を理解することで、ひとつになっていくことが出来そうです。
今まで、私なりに勉強してきたこと、実践し感じたことを暉峻さんがおっしゃってくださった。と勝手にうれしくなってしまいました。
対話のワークショップをすると、本当に参加者の皆さんが「くっついて」いくのを感じます。昨年度、関わらせていただいた美濃加茂市のまちひとしごと「カミーノ(女性が活躍する美濃加茂市を目指した地方創生の愛称です)」で、女性だけで考えた7つの事業があります。全部で10回近くワークショップやお試しイベントなどをしました。ほとんどの会を対話を中心にしたワークショップとしました。最後の会で、どのプロジェクトに参加したいかについてお聞きしたところ、ほとんどの方が「どのプロジェクトでもOK」とのお返事をくださいました。たいへんうれしいコメントでした。これは、「くっつく」一つの姿であると思えるからです。
美濃加茂市内でバラバラに生活していた方々が、ワークショップを通して知り合い、語り合ったことで、お互いの信頼が生まれ、事業へのコミットも高くなったのではないかと考えています。「くっついた」のではないかと。
さらに、参加者のみなさんも、対話を求めていたのではないかと感じるのです。ワークショップ中でも、対話の時間はたいへん短く感じるほどに語り合いました。メンバーチェンジをしても、すぐに内容に深く入っていけるのは、みなさんの中に信頼感を伴う対話を求めていたからなのかもしれません。
対話に必要なのは
まずは、聴くこと。と書かれています。そして、双方向のコミュニケーション。聴くだけ、話すだけの一方通行では対話にはなりませんよね。お互いの言葉のやりとりの中で違いに気づいたり、その背景に思いを巡らせたり、考え、探求していったりできることが対話と名付けられているのです。
そして、対等の立場にたつ誠実な聴き手が必要とも言っています。誠実な聴き手がいることで、話し手も誠実になり、話し手の考えが引き出されていくと。
「対話とは、ただ言葉で話し合うだけでなく、対話しようとする意思、行為のすべてなのだと悟りました。」この言葉を胸に、私のフィールドとして与えられたワークショップの中で実現していけるのか!について考え、試みていくことがミッションなのかもしれないと悟りました。